私の証



  • 世界平和統一家庭連合に入教して10年、20年、30年、40年と歩めば色々な証があるでしょう。入教当時の話、苦労しながらがんばった証、強烈な神体験、導かれて問題解決・・・その他いろいろ。素直な気持ちを投稿してください。1500字前後でお願いします。
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    #003 統一教会との出会い・・・

    Mさん

    私が、世界基督教統一神霊協会に出会ったのは、19才、大学1年生の夏でした。高校生の頃、世界史の授業が面白く、また国際情勢に関する本をよく読んだ事から、将来国際ジャーナリストになり活躍したい。また世界中の現代史の現場に立ち会いたい、というような夢を抱くようになりました。そして大学にはそのような夢を持って入ったのです。

    しかし1990年当時、私の大学では、そういう夢を語る仲間との出会いはなく、車と彼女と飲み会、等の遊びに明け暮れるサークルばかりが目について、気が付けば自分もそんなサークルに身を置いていました。1年浪人してまで大学に入ったのは、こんな日々を送るためではないのに…、と本心は叫ぶものの、いつしかその日その日を楽しく過ごせばいいか…という大学生活に入っていました。当時は何の不満もない大学生活と言い聞かせていたのですが、心の深いところでは、「何かに人生をかけてみたい!」、「そう思えるものに出会いたい!」という欲求が渦巻いていたのです。

    私が教会の人に街頭で声を掛けられたのは、そんな大学1年の夏のできごとでした。自動車の教習所に行ったあと、夜の飲み会まで時間があったので、駅前にぶらーっと出て行くと、何か目を輝かせた青年に声をかけられたのです。そして教会の教育センターで、人生の目的や歴史、国際情勢について学べる、という話を聞いて少し興味を持ちました。しかしそれ以上に興味を引いたのは、「Mさんのようなことに関心を持った人たちがたくさん集まっているところですよ!」というひと言でした。もしかしたら…そこに行けば本心が願っていた人生と、共に生きる仲間に出会えるかもしれない…! そんな気持ちから、その日のうちに訪ねてみました。わたしは嫌ならハッキリ断る自信もありましたから…。

    行った日に受けた講義は、私の求めたものとは正直違いましたが、そこで働く人たちの目に何かわからないけれども、大学の友人の目の光とは違う、心に充足を感じている人の輝きがあったこと、そして先に進むほど「Mさんの求めたものに出会える。」という言葉が心に残り、週に1~2回、自分のペースで学んでみたのでした。

    そして3ヶ月経った頃、統一運動と言われる文鮮明先生の世界的な平和運動にすっかり心を魅かれてしまいました。全人類を一日生活圏で結ぶ国際ハイウェイ構想。そしてボーダーレスな世界を創る国際結婚の奨励。私は「求めていたものに出会った!」という感覚を得ました…。この感動をどう表現したら良いのでしょう…。また当時の世界情勢では冷戦終結が大きな事件でしたが、その立役者となったゴルバチョフ大統領に文先生が話した共産世界の未来に対する構想は、今聞いても新鮮な、本当に新世界秩序のビジョンになり得るものでした。その時から、私は迷わずに統一教会と運動に身を投じました。おかげで私も国際結婚をし、また普通では味わえない体験もたくさんできました…。本当に真に人生を生きている、という充足感を今も味わっています。本当に感謝しております…。 

    | 2010-03-23 |

    #002: 感謝なるかな統一原理

    H Oさん

    私が最初に教会を訪ねたのは大学一年(1971年)の7月でした。統一原理との出会いにより、私の人生は180度大きく変わりました。

    中学、高校時代、私はクラスの人間関係で悩むことで「自分は何のために生まれたのか、何のために生きているのか?」と真剣に考え悩むようになりました。それまで、本を読むことが嫌いで読書をするということは殆どありませんでしたが、その時から人の生き方、人生について書いている本を手当たり次第に読むようになりました。

    自分の本心が求めているのは親子、兄弟、人間関係に絶対的な愛の関係を築くことであるということは分かるのですが、そのような愛の関係を築くことは不可能であると思うと、生きていることに何の意味があり、価値があるのだろうという思いが沸いてきて、ますます悩みが深くなるばかりでした。天体望遠鏡を買って夜空を見つめると、土星や木星の神秘的な美しさに感動するのですが、余りにもちっぽけな自分のことを思うと、何ともいえない寂しさと空しさがこみ上げてきました。

    大学受験も将来のためにこれを学びたいというよりも、大学に入って人生に対する疑問を見つめる時間が欲しいという思いでした。大学に入学してすぐにサークルの説明会があり、「人生と宇宙の根本問題を考える」という原理研究会のポスターが目に入りました。必ず話を聞きに行こうと思いながら時が流れ、7月に統一原理との出会いがあり学ぶようになりました。

    統一原理を学ぶ中で、「人間は神様の似姿、子供として創造され、神様の絶対的な愛の対象であるということ、神様は親子、兄弟、家庭、人間関係の中に絶対的な愛の関係を築くように人間を創造された」ということを知りました。そして、それは単なる教えではなく、文鮮明先生がまさしく、そのような生涯を歩んでこられたということを知ることができました。私が生きている時代に絶対的愛を貫かれ、勝利してこられた方がいらっしゃるということに驚きとともに心から感動し、感謝しました。

    それ以来、私は何のために生まれ、何のために生きているのかということで悩み苦しむことは一切なくなりました。人間関係で悩むこと苦しむことは今も多くありますが、言いしれない、生きていくことに対する不安、空しさは完全になくなりました。統一原理に出会う前は、夜、布団に入ってもなかなか寝付かれず、頭の中が色んな思いでぐるぐる回っていましたが、今はいつでもどこでもすぐに眠れます。

    私は、誰よりも、誰よりも私の幸せを願い、24時間私を見つめておられる親なる神様が共におられることを38年間実感してきました。今も解決しなければならない多くの課題があり、悩みもありますが、これからも神様の愛を信じ、確認し、実感しながら頑張っていきたいと思っています。

    | 2010-03-17 |

    #001:統一教会と私

    CHさん

     『少し時間ありますか・・・?』と錦糸町・丸井デパート前の路上で声をかけられたのは、1986年5月18日、それは22歳の誕生日を迎えて2日後のことだった。日曜日の午後で別段これからの予定もなく、アンケートだと投げかけられる質問に淡々と答えた。『神はいると思いますか・・・・』と質問され、「いると思う」と答えた。全てがこの一言から始まった。あれから24年、今、私は微塵の後悔もしていない。

    当初、統一原理を学びながらこれが宗教だとは思えなかった。あまりにも理路整然とした哲学的内容に新鮮な感覚を感じた。学べば学ぶほど内容は凄かった。“歴史の同時性”を学び「神はいると思う」という立場から、「神は明らかに存在する」と、確信へと変わった。それほど衝撃的内容だった。そして、6月半ば、私は当然のように統一運動に献身を決めていた。7月になると4日修練会に参加した。文鮮明先生の生涯路程を聞きながら、これまでに感じたことのない衝撃を受けた。感動は止めどなく流れる涙となり「自分はこれほどまでに涙が出るのか・・・?」と思えるほど涙は溢れ出た。文鮮明先生の生涯路程は、あまりにも壮絶であり、感動的、衝撃的であった。

    私は、統一原理を学び統一教会の信仰を持つことで神様が存在することをハッキリと知った。そして、文鮮明先生は人類の救世主であることをハッキリと知った。それは特別なことではなく、文鮮明先生の人生をほんの僅かでも学んでみれば誰にでも感じることであった。私は人類の救世主たる方が存在される偉大なる時代に生まれたことを知り、心から、心から、心のそこから産んでくれた両親と命を繋いでくれた先祖と自分の人生に感謝した。

    人はよく「弱い者が信仰をする」という。しかし、統一教会の信仰をもって24年間、責任をもって過ごしてみれば「弱くては信仰は続かない」と知った。統一教会の信仰は御利益的信仰観では身が持たない所であった。神に救いを求めようとする教会ではないからだ。むしろ「神を救わなければならない」とする教会であった。それほどに神は悲惨で囹圄の神であった。調子の良い時には神を褒め称え、調子が悪くなると「神も仏もいない!」と吐き捨てる都合の良い人間。私はそのような人間になり損ねたことを感謝している。万民に手を差し伸べたい神。しかし、そのように出来ない事情の中で長い、長い、月日を苦しんできた神の姿を文鮮明先生に教えてもらった。人類史上、いったい誰が可愛そうな神の姿、悲惨な神の姿、どん底に叩きつけられている神の姿を紹介したであろうか・・・?

    全知全能を強調し、至福の神を強調し、栄光の神を強調し・・・と、神と人間を遠ざけた宗教家は数知れない。親が苦しければ子も苦しい道を行かざるを得ないように、親なる神が悲惨な歴史を辿らなければならなかった故に、人類も悲惨な道を歩まなければならなかった。統一原理はその歴史を明確に私に理解させてくれた。今40半ばを越えて、過ぎし日を振り返れば幸福であったと思う。全てに感謝である。月並みだが、統一教会に来た全て兄弟姉妹徒と同じように、産んでくれた親には感謝している。確かにそうである。私は更に強く雄々しく統一教会人として神様と共に歩んで生きたいと思っている。

    | 2010-03-06 |